岡部哲也プロフィール
データ
岡部哲也(おかべ てつや)
生年月日:1965年5月15日
出身地:北海道小樽市
身長:180㎝
プロフィール
中学時代よりナショナルチーム入り、中学3年でワールドカップ出場を果たす。
小樽北商高校卒業後は株式会社デサントに入社。
オーストリアに生活の基盤を移す。
1987年のワールドカップ最終戦では、日本人としてはそれまで最高の4位に入賞(二本目ベストタイム)。
1988年ノルウェーのオップダールで行われたスラロームでは、再度2本目の最高タイムをマーク。合計では、当時絶好調だったアルベルト・トンバをあとわずかのところまで追い詰め2位入賞の快挙を果たす。
1989/1990シーズンには、全9レース中6レースで6位以内に入賞し、スラロームの種目別総合で7位にランクイン。
1991年夏、アデノイドの手術後、原因不明の蕁麻疹により、約3ヶ月間の入院生活を強いられた。
その後復帰したが、1995年3月の富良野大会を最後に現役引退。
1995年スノースポーツを通じて社会に貢献するべく株式会社ネーヴェを設立、代表取締役就任。
現在は軽井沢を中心にスキー・スノーボードのレッスンだけでなく、屋外アクティビティ施設、セレクトショップ、各種イベントなどを企画・運営。
また、ワールドカップやオリンピックのスキー解説、TV、雑誌など各メディア、講演会などにおいても活動中。
2017年11月より始まったスキー専門TV番組「SKI TV」(BS12)には企画から携わりメインキャストを務める。
一般社団法人ジャスト・ラビング・スキー代表理事
NPO法人One's Handsプロジェクト代表
2019年6月デサントよりウエアサポートが決定
TETSUYA OKABE Stories
第1章…世界へのデビュー
世界へ出ていったのは15歳。デビューは1987年のワールドカップ・スラロームの最終戦、サラエボでの4位であろう。
実は、その年、ひとつの賭けをしていた。私は小樽の北照高校卒業後、株式会社デサントへ入社、その後、夏季の間は語学勉強のため、オーストリアへ渡ることになる。向こうでは度々、勉強の合間にオーストリアナショナルチームと数回の雪上、陸上トレーニングを重ねたのだが、そこで大きな違いを感じたのであった。
今でも覚えているが、とにかく彼らは若いくせにプロ意識を個々がきちんと持っており、私のスキーに対する考え方など、このままでは世界で通用しない、と考えさせられたのだ。
しかし、当時19歳になっていたが、世界ランクの10代で5位につけていた。
必然的に私の目標は、青い目の奴らに向いていた。が、そう簡単にプロ意識を持てるまでには至らなかった。
その年の2月、フランスのラ・モンジーで初のワールドカップ15位に入賞、初ポイントを獲得することができた。
しかし、それは本物ではなかった。その後はなかなか結果が出ず、しかも自分の滑りさえできなかった。
この先ほんとうにトップへ行けるのか、と疑問や不安ばかりが脳裏をよぎっていた。
そしてついに私は、スキーをあきらめ、競輪の世界へ転向しようと決意していた。
ところが、ある先輩からもう1年トライしてみろ、それでダメだったら競輪に転向しろと説得され、人生を大きく変えたかも知れない一か八かの挑戦をしていた時である。
そしてそれは忘れもしないサラエボだった。スラローム最終戦、2本目のベストランで4位に入賞。「やっと世界中の人達にオカベというレーサーをアピールできた」、そして本物のワールドカップレーサーになれたことに喜びを感じていたのである。
エルステ・グルッペ
「エルステ・グルッペ」世界ランキングのトップ15のレーサーをこう呼ぶ。
とにかく第1シードは、誰しもが目標にする難関である。私もその1人であり、第1シードに入るんだという気持ちを強く持っていた。全てのレーサーにチャンスはある。だが、それを結果に結び付けるのは困難である。
私の場合は、ファン・スタッフ・先輩たちがいたから結果を出せたと思うが、一番のキッカケとなったのは、当時オーストリアナショナルチームのコーチであったペーター・プロディンガーとの出会い大きかった。速く滑るための技術など細かく、論理的に教わり、徐々に理解できるようになり、体で覚えていった。
第1シード中は、つねに勝利を目指し頑張った。
またマテリアルメーカーやスタッフたちの私に対する見方も変化していたと思う。スキーを選ぶにしても、最高のものを選ぶことができ、みんなが本物のプロとして働いてくれた。
私は、自分のため、スタッフのために勝利を一度でも手にしたかった。私の記憶の中では3度勝てるチャンスがあったが、残念ながら実現はしなかった。
引退の決意
小学校の卒業アルバムの中に、こんな夢を描いていた。
「将来スキーのオリンピック選手になりたいなぁー」と。
確かにその夢は実現でき、3度オリンピックに出場できた。しかし、なぜあの時、「優勝したいなぁー」と書かなかったのか、後悔している。
話が飛んでしまったが、本心はファンや親のことを考えたらやめたくなかった。
だが、私は病気の時に一度、レーサーとしては死んでしまい、後に4シーズン戦えたことが信じられないくらいだった。
1995年1月キッツビューエルの終わった翌日、世界選手権の代表発表、落選、その時、自分の心は引退を決意していた。
第2章…夢
「アルペン日本」、いつしか世界中、そして日本中のみんなが、アルペンスキーを応援してほしい。そして本物のスーパースターが、今後日本から生まれてほしい。また、生まれなければいけないと思っている。
私は、スキーでいろんな事を教えられた。それはこれからも続くだろう。現役レーサーを退いた今、度々思うことだが、日本チームには、絶対に強くなってもらいたい。
「夢」とは、必ず実現させることだと思う。しかし、努力なしでは、それは実らない。
今、私は大きな夢を持っている。だが、今はここでは表現できない。決して秘密にしているわけではなく、当面の目標をしっかり作ることが私の夢と目標である。
第3章…継続
1995年の引退の年、結婚、会社設立。
1997年12月軽井沢にスキースクールを開校。
そして今年でスクールは21周年を迎えた。
「教えて教わる・笑顔率No1・親切丁寧」指導の大切さ、難しさ、今尚勉強の日々である。